mathichen独話【Hatena版】

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人は真の悲哀に対して、感情を失い、涙は流れないもの

アタシが亀の甲より年の功な、誰かがオギャ~な1979年映画より








1950年代後半から1970年代後半にかけてのモスクワを舞台に、田舎から出てきた3人の女性を描いた物語
彼女らは郊外のアパートで同室に暮らすことになり、やがて友人となっていく




エカテリーナは学位を取得しようと努力するかたわら、工場で働いている
彼女はあるパーティーで、TV局のカメラマンをしていたルドルフと出会い、やがて彼女は妊娠することになる
しかしルドルフには結婚の意志はなく、エカテリーナは娘とともに取り残される
ルドルフの母から手切れ金を提案されるが、エカテリーナはきっぱり拒否する




20年後、エカテリーナは工場長にまで出世している
工場を取材に訪れたルドルフと再会、ルドルフは娘に対して償いをし、顔を見たいと願う
ルドルフはエリート家庭育ちであるが、彼自身の社会的地位はエカテリーナと逆転している、我欲が出た?
エカテリーナは自分が結婚する予定であり、電話もして欲しくない、家にも来ないで欲しいという
しかしルドルフはそれを聞き入れず、エカテリーナのアパートまで押しかけてくる
その結果、エカテリーナの現在の恋人ゴーシャが混乱してしまう
ゴーシャは恋人が高給取りを知らず、また、どんな形であれ女性上位が認められないのである…




‘モスクワは涙を信じない’、ソ連映画にしてはオサレな部類に入る
1980年、敵性国家アメリカも評価し、アカデミー外国語映画賞をあげちゃった




この映画で、ソ連というかロシア的なのは、エカテリーナの友人たちが旧友を訪れる場面
エカテリーナの娘を呼びかける時、「アレクサンドラ・あれ…」と言葉に詰まる
アレクサンドラは、父称を持たないため(父称の参照:http://rossia.web.fc2.com/rossia/fio/otchestvo.html
彼女は認知すらされない生まれであり、『ルドルフの娘』を言い表すこと出来ないの




何故、いま、この映画と父称を持ち出したか?




日本人だと、そもそも親父や母ちゃんの名前覚えていないこと多い
忘れちゃった、え~い、適当に書いちゃえ、総理大臣の借りとこ~とか
うちの父はもう亡くなっていますが、どうします?婚家のお舅さんとどちらにしましょう?とか
いまだ家制度意識強いわりに、超エエ加減な面見られる
あるアラブ女性(日本の‘花子’的名前、‘ヤスミナ’で呼ぶ)の話を理解出来ないまでにね




アラブ諸国では、入国カードに父親の名前を書く欄がある
(政治的には宿敵ながら、セム系異母兄弟人種であるイスラエルでも同様)
ヤスミナは理由があって祖母に育てられ、母親はいろいろ複雑な結婚をした人であり
法律上、誰が父親に当たるのか?ヤスミナにはわからないため
彼女はアラブ諸国を旅行中、入国審査で真剣に『自分の存在意義』を悩み出した





セム系は多かれ少なかれ、家父長制度が続いており、父称もその一つ
古臭い印象受けるけど、彼らにとって『父親の証明』は、先祖代々受け継がれる身分証明である
女の子に対する貞操観念が厳しいのだって、彼女たちが代を継ぐ人間を産み育てる責任を持つからよ
彼女たちを父親や兄弟が学校まで送り迎えしたりするのは
放課後コッソリ遊びに出かけ、どこのオッサンの骨かわからん子供孕んだら、一族の恥でしょが
死別や正当な離婚ならいざしらず、お泊り同棲の結果であるシングルマザー何が悪い的小娘だわ
防げる危険に何ら手段を講じなかったくせに、不始末の後始末を責任という小便タレ小僧だわ
自分の子供か疑うトピックや、「次行こ、次」と簡単に離婚勧めるレスなどを発言小町に多く見るわ
現代日本人の多くって、おサルがご先祖様なんでしょうよっと




国違えば文化違う?そおかしらん。本質的な面は大差ありゃせんぞ




家父長制度もね、遊牧民の世界を見ると、いかに責任感強い男育てるかと感動する
何十年ローン組んでの不動産持たない遊牧民にとって、何が一番の財産かといえば、テントの中の羊や家族
日本の宮仕えどものように、帰宅拒否症的飲み会や浮気やってたら、どうなるか?
テントが人間とケダモノ両方の野獣に襲われ、無一文になっちゃう~
夫婦両方が今日も亭主元気で留守がイイなんてのは、都会文明でボケた国や地域の寝言タワゴトというわけ




イスラムの一夫多妻制度は本来、戦争が男の仕事であった時代の、後家さん救済活動
ユダヤ教で、後家さんを亡夫の兄弟が再婚出来るも、女や子供が路頭や砂漠に迷わない保護策であり
こちらは男が拒否したら、女に罵倒され訴えられ身ぐるみはがされ、一族も恥の連帯保証人と
女側に有利な諸々が用意されております




ま、都会文明が中東にも流れ込んだせいで、離婚率が西欧並みに近づいた所は多く見られる
女は家業を手伝うとか以外、職に就かないのが本来の在り方が崩れてしまったのよ
高等教育活かせるだけの社会が確立されているのであれば、話は別ですがね
どっかの島国に棲息するような小賢しいドグサレ似非中流オンナ増やす程度の受け皿だったら?




…これ以上やると、頭丸めた坊さんの説教並みに長くなり、眠くなるわ足シビレるわ
話をソ連映画の続きに戻すと




ゴーシャはその後しばらく、エカテリーナに電話もよこさず、家を訪ねることもなかった
エカテリーナの旧友たちは、何かしなければならないと考え、ゴーシャを探す算段を立てる
酔っ払っているゴーシャを何とか見つけて一緒に酒を飲み、エカテリーナの元に戻るよう説得する
エカテリーナの家の台所で、ゴーシャはスープを飲み、8日間もの間音信不通にしていたことを詫びる
そんなゴーシャに対し、エカテリーナは『もっとずっと長い間』、ゴーシャを探していたのだと伝える…




映画の原題、「泣いた所で誰も助けてはくれないものだ」という意味を持つロシア語の格言とか
泥酔しようが、エカテリーナの存在がかけがえのないものだとわかったので戻ったのだと思う
この幕切れは、女を賢くするもドグサレ系にするも、『男の甲斐性』次第という意味でしょ
価値観が食い違っても話し合い出来る器であれば、無骨な男だって惚れられるのさ
エカテリーナが涙を浮かべたのは、ゴーシャが彼女への信頼から戻ってきてれたおかげ様