mathichen独話【Hatena版】

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中華思想パワーとの闘いが楽しみ

暑くてたまらん、ボケーッとの午後
 
が、眠気だけは吹っ飛んだ
何年ぶりだ~のようやっと見つけたおかげ様…
 
YouTubeにわんさかUPされてるたって
古~い時代でも、ココの権利関係は怖いというかようわからんし
どっかの島国の純情な皆様の夢を壊しても悪いし

 

 
Victory Through Air Power (final) part 10 (肝心の部分が、Daysに使えん…)
 
~空軍力の勝利』(くうぐんりょくのしょうり、原題:Victory Through Air Power)は1943年7月17日に公開された、ウォルト・ディズニー・カンパニー製作の実写&アニメ合成映画。カラー、スタンダード。上映時間は65分。~
 
(大賢者様より)
 
Yahoo!検索すりゃ、もっと詳細わかりますよ
 
最後の場面は、東京に空爆、空襲によるホロコーストによって米国の勝利バンザイ三唱
1943年製作ですからね…軍に東京大空襲をけしかけてるワケのネズミー御大
 
『政治との関係』
 
プロパガンダ映画の制作
1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求めた。映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった 。検閲や行政指導ができない上に高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させている。
 
しかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。
 
政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。しかし大衆自身が願う形へミッキーを作り変える作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。戦後もディズニーは政府の核実験、原子力開発キャンペーンのプロパガンダに参加している。
 
大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画には、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーン、アニメ映画「総統の顔」には昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。
 
空軍力による勝利 Victory Through Airpower(1943年)

新しい精神 The New spirit(1943年)
 

反共姿勢
第二次世界大戦後、生前のセルゲイ・エイゼンシュテインと親友だったことなどから、当時吹き荒れていたジョセフ・マッカーシーの「赤狩り」の嵐に巻き込まれる。彼は公聴会に出頭し、「(冷戦前の)ソ連に『三匹の子ぶた』(1933年)を売ったことがある。非常に好評だった」と証言している。最終的には無実とされた。この様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供したり、自社の労働組合と激しく対立していた事から、当人はむしろ熱烈な愛国主義者、反共主義者と考えられている。

 
この様な指摘に対して、ジャーナリストのニール・ゲイブラーは「ウォルト自身はノンポリで、政治に関しては特別関心を持たなかった」と指摘しているが、『闇の王子ディズニー』を著したマーク・エリオットは、「赤狩りの時代に、ウォルトはハリウッド内の映画人達の思想についてFBIへの熱心な密告者であった」と指摘している他、ディズニーランドのモノレールの開通時に、アナハイムの近隣のヨーバリンダ出身で、赤狩り時代にマッカーシーに近い反共主義者で知られた共和党選出のリチャード・ニクソン元副大統領(後に大統領)を招待している。
 
なお、7年に及ぶ調査とディズニー社の事前チェック無しに出版されたゲイブラーの執筆による伝記、「Walt Disney」(邦題:創造の狂気」)の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。同時に、戦後の赤狩り時代、彼の反共的な姿勢は、労働組合によりスタジオが壊滅的打撃を受けたことにたいする嫌悪感であったことを指摘している。ともあれ、ウォルトは最晩年の1964年には、右派の共和党員として、大統領選に出馬したタカ派のバリー・ゴールドウォーターを熱心に支持していた。
 

人種・性差別姿勢
ゲイブラーは、ウォルトが製作したミュージカル映画『南部の唄』での黒人の描かれ方から、ウォルトが人種差別主義者のレッテルを貼られたことについては、「製作に熱中するあまり、人種に関する配慮に欠けていたのだ」と主張している。ウォルト自身は読書をほとんどせず、世相に対して鈍感な面を持ち合わせていたというのである。 この『南部の唄』は、公開直後から「全米黒人地位向上協会」(NAACP)の激しい抗議を受け続けており、アメリカ本国では再上映やビデオ化が阻止され、「幻の作品」となっている(日本でビデオ発売が実現したが、廃盤)。

 
しかし、ウォルトに対する「白人至上主義者」、「人種差別主義者」との批判は、彼が死ぬまで浴びせられ続けたものであって、別に『南部の唄』に限ったことではない。ウォルトは『南部の唄』では封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかったし、『南部の唄』の以前にもその二年後にも、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで、野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱漫画を出版していて、現在も批判の対象となっている。また、彼は死ぬまでディズニー社の要所に黒人と女性を雇い入れなかった。彼の制作した作品群のほとんどすべてに、様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る人種差別、および男尊女卑的な性差別が指摘されている。ただし、当時は一般的にも多くの人が人種差別主義であり、平等という考え方がなかったため、彼が心のそこから「人種差別主義者」であったとは考えにくい。その証拠として存在するのが「イッツ・ア・スモールワールド」である。このアトラクションでは人種が関係なく、すべての国の人を平等に描いている。
 
(大賢者様より)
 
以前、乳母様が書かれたように、複雑怪奇なネズミー御大とはいうものの
(熱心に支持していたバリー・ゴールドウォーターにも言える)
労働組合嫌いは、後ろ暗い部分多すぎる自分の過去のせいや
アコギな商売やってたのはウラ話でわんさか
 
1992年開園のユーロ・ネズミーランドが、並みの遊園地程度の盛り下がりぶりに対して
1983年開園の千葉なのに東京ネズミーランド、どこまで膨張するねん級盛り上がり
これには、‘エスクァイア’誌に面白い考察があります
 
ウォルト・ディズニーから最も多く学んだのは
スティーヴン・スピルバーグジョージ・ルーカスでなく、日本だったかもしれない
何故なら、ウォルト・ディズニーは(つまり、日本も)
『正確で、清潔で、面白さに欠ける、機械的なものの先駆者』だったからだ」
 
…いっぺん見学してみたくなる…
売れない冴えないキャラが、レストランのゴミ出し姿、現代でも見られるのか
ネズミは雄雌どっちも怖い、アヒルか犬が迎えてくれ
 
日記題名の理由
 

世界6か所目、上海ディズニーランド着工式
< 2011年4月9日 6:29 >
 
中国・上海で8日、世界で6か所目となる「ディズニーランド」の着工式典が行われた。4年後の開園を目指している。

 
 「上海ディズニーランド」は、上海の中心部から車で約1時間の田園地帯に約3000億円をかけて造られる施設で、アジアでは東京、香港に次いで3か所目となる。テーマパークそのものの広さは1.16平方キロメートルで、最も小さい香港の施設より狭いことから、「ミニ・ディズニー」などと地元メディアに揶揄(やゆ)されていた。ただ、中国国内や海外からの客も見込めると期待されている。
 
 「ウォルト・ディズニー」社のロバート・アイガー社長兼CEO(=最高経営責任者)は「(上海ディズニーランドの)着工は私たちにとって歴史的な出来事であり、大きな一歩です。真のディズニーランドであり、中国独特の施設になるでしょう」と話している。
 
 開園は15年の予定で、東京や香港のディズニーランド同士での客の奪い合いや、コピー商品が横行する中国でのディズニーブランドの模造品対策などが今後の課題となる。
 
日テレNEWS24より)
 
香港と違って中国本土、確か墓場か何かを立ち退きさせて
 
中国の皆様、パワー全開で満喫お願いします



友だちまで公開                                               2011年5月7日 19:53