mathichen独話【Hatena版】

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男の責任女の覚悟とは何ぞや

1977年(昭和52年)3月、堀越高等学校を卒業、同年4月には、戸板女子短期大学に進学した。同年7月15日未明、東京都港区三田4丁目の秀和三田聖坂レジデンス内の自宅に窓から暴漢が押し入る事件が起きた。犯人は岡田を果物ナイフで切りつけ、右手親指の付け根と左手の掌に30針の重傷を負わせるなどし、早朝7時には犯人は玄関から出て行ったという。所属事務所は記者会見を開き、岡田は両手を包帯につつまれつつ事件の顛末を説明した。当時、岡田はテレビドラマ『俺たちの朝』にレギュラー出演中でもあったが、事件の2日後には仕事を開始したという。この折の犯人は以降も逮捕されぬまま、時効が成立した。

Wikipedia:『岡田奈々』より引用 )



この手の事件は現代でも騒がれると思いますが、昔々は芸能人生がかかっていました
オトコの影が見えたり男女仲のムフフが感じ取れると、たちまち人気凋落、下手すりゃ引退の憂き目
松田聖子ちゃんが結婚してママドルになった1980年代後半までは常識でした
(聖子ちゃんと結婚した旅サラダ男、一緒に旅した仲の奈々ちゃんを捨てた説あり)
日本中の皆様から友和さんと結婚しなけりゃ暴動起きそうだったモモエちゃんは別格なんですよ
はなまる薬丸と石川秀美出来ちゃった婚(実は、現役アイドルが確実に結婚するための共謀オメデタ婚)
女性アイドル(と、ジャニーズ系)の縛りが緩和されるのは、1990年以降でしょう


TVドラマ出演などではいつの間にやら母親役、すっかりオバさん(泣)は置き
奈々ちゃんは、暴漢との間に何が起きたか起きなかったか、ずっと沈黙守っています
事実はどうあれ、アイドルの座から転落するならば、不必要な好奇心あおる必要無い、賢明でしょ


時代は遡って、銀幕の夢華やかなりし戦前へ




川崎 弘子(かわさき ひろこ、1912年4月5日 - 1976年6月3日 )は日本の女優。本名は石渡シヅ子(通称静子)。

川崎市の川崎大師のすぐ前の家に生まれる。赤貧の時代に俳優木村健児にスカウトされ、1929年2月、松竹蒲田に入社。芸名の川崎弘子は川崎大師 と弘法大師にちなんで付けられた。主にメロドラマで活躍し、1930年1月には準幹部になる。哀愁のある美人スターとしてトップスターとなり、1932年 1月には幹部となる。

1935年、離婚歴があり、麻雀賭博や結婚詐欺の疑いで何度も警察の厄介になっている福田蘭童と結婚したため人気は急速に低下した。しかし1936年に佐分利信を相手に主演した『人妻椿』は空前の大ヒットとなった。1939年1月に大幹部となる。

1942年より病気で休みがちになり、役も小さくなり1947年に引退。1951年にカムバックしたが1958年に完全引退。

1970年から肝臓を冒され、1976年、肝硬変で死去。

( Wikipedia:『川崎弘子』より引用 )
福田 蘭童(ふくだ らんどう、1905年5月15日 - 1976年10月8日)は音楽家

本名は石渡幸彦(さちひこ)。青木繁と福田たねの息子として茨城県真壁郡伊讃村(いさむら)川島(現在の筑西市)に生まれる(ただし正式な結婚ではなかったため出生届は、たねの末弟として提出されている)。福田家の援助により、茨城や栃木を転々として育つ。2歳で父と生別。その3年後、父が九州で他界する。

尺八奏者として知られる傍ら、作曲家としても活躍。日本放送協会のラジオ番組「新諸国物語・笛吹き童子」のオープニングテーマ及び劇中曲を手がけるなど、ラジオ草創期においてその才能を発揮した。また、料理や釣りにも長じた趣味人として知られた。

また映画音楽も手がけたが、1935年、映画撮影の為にロケ地の大島へ向かう途中、船上で出演女優の川崎弘子と肉体関係を持った。これが「レイプ」として世間の批判を浴びた。(この事件については松竹蒲田撮影所の当時の所長、城戸四郎に責任をとるように迫られ、妻と離婚して川崎弘子と結婚した)。

なお、後にハナ肇とクレージーキャッツのメンバーとなる石橋エータローは、川崎との結婚のために離婚した元妻との間にできた子供である。

Wikipedia:『福田 蘭童』より引用 )




船上スキャンダルについて、日本映画女優史料本によれば
映画会社は色を失い、満天下のファンは彼女の『悲劇』に同情
憎むべき福田へは非難が囂々として巻き起こり、あわや社会から抹殺されかかる勢いを示したが
このままでは肝心の彼女も共倒れになるとして、文壇の大御所・菊池寛がとりなしに乗り出し
福田を呼んで、彼女を絶対に不幸にしないと固く誓わせた上で結婚の仲人役を引き受け
満天下のファンはようやく安堵の胸をなでおろし、二人の明るい前途を祝福したそうな


こちらは、落花狼藉・合意さてどちら?も置いといて


一女優の面子守るため、男がワザワザ離婚してまで再婚
そうしなけりゃ腹の虫おさまらない世論
一種の不倫略奪婚を推奨して仲人役の菊池寛といやぁ、‘父帰る’…何かオカシイような???
昭和初期エログロナンセンスも吹っ飛びそうな、何ともすさまじい限りの世相ですね
と同時に
さすがの遊び人も再婚後は大人しくなり、弘子夫人と一緒に渋谷で活魚料理店を開いたりと仲睦まじい日々
それだけ、古は倫理観や責任感が機能していたということでしょ
出来婚を授かり婚と綺麗に換言、離婚を恥じず人並みの再起願う、何度も性懲りもなく家族泣かせる、見習え


見習えといえば、敗戦後へ戻っても然り




年譜
1907年(明治40年
福井県知事阪本釤之助[1]の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性。

1908年(明治41年)1歳
母と共に上京。実父と一度も会うことなく、東京麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたがそれでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。

Wikipedia:『高見順』より引用 )
生い立ち
1959年(昭和34年)、作家高見順(本名・高間芳雄)と、その愛人小野寺房子(高見順の小説『生命の樹』に登場するホステスのモデル)との非嫡出子として、東京都渋谷区千駄ヶ谷に生まれる。出生名は、「小野寺恭子」だった。

5歳の時の1965年(昭和40年)8月4日、高見順の養女として高間家の籍に入り、「高間恭子」となった。父・高見順は同年8月17日に病死した。

14歳の時に、雑誌『MC SISTER』のモデルとして、「高間恭子」の名でデビュー。高校卒業まで、高見順の未亡人から養育費を受けて育った。

Wikipedia:『高見恭子』より引用 )




親の因果子に巡り…と場末の芝居小屋出し物ネタになりそうですけど
2週間ほどしか父親と暮らせなかった娘は、その後も父親の正妻から何かとよくしてもらったと感謝
高見夫人は苦労人(高見の著書‘敗戦日記’を読んでもわかる)
自分の責任ではない出生をもって人を差別せず、そして寛恕の念を備えていたのでしょうかね


完璧な人間なんて存在しない。道を誤る踏み外すは誰にも可能性ある
大事なのは、二度と白紙には戻れない過去を背負う覚悟、二度と同じ間違いを繰り返さない強い意志
リセットして後ろ指さされない人並みの生活を望んだり、別れた子供に堂々と会えないような糞ガキ生活だったり
代償払わずして、贖罪意識も無論持たず、自分が元家族の誰よりも幸福になろうとする、人間もどきのケダモノ
永遠の小娘青二才には、仕事や新たな子供を持ち、表面上は問題無くとも、皮相な余生が待つのみ