mathichen独話【Hatena版】

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『歴史』と『物語』は表裏一体

理数系は全くダメな文化系の頭の体操として




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最期
1917年、ニコライ2世の最後のものと伝わる写真ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、イパチェフ館(資産家イパチェフの家)に監禁された。イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。ニコライは死の4日前まで日記を書き続けた。しかし、チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、1918年7月17日午前2時33分、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人ヤコフ・ユロフスキー(Yakov Yurovsky)率いる、ユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が、元皇帝一家7人、ニコライの専属医、アレクサンドラの女中、一家の料理人、従僕をイパチェフ館の地下で銃殺した。

スターリン時代は皇帝処刑は革命に貢献する行為とされていたため、ソ連政府は一時期、革命教育の一環として処刑に参加した兵士を全国の学校や職場で講演させ、自分の体験を英雄的行為と考える彼らが当日の情況を多くの人に詳細に語った。そのため、皇帝一家が地下室に集められて処刑隊の指揮官が死刑執行を告げたとき、皇帝が当惑したように「何と言ったのだ?」と訊き返したことや、壁際に固まった10代の子供たちを含む一家に拳銃の乱射が浴びせられたこと、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫んだことなど、この処刑の状況はきわめて具体的に判明している。

ユロフスキーが残した資料によると、殺害した遺体はその後、一度廃坑に埋められた後掘り起こされ、別の廃坑付近で2体の遺体を焼却した後に残り9体が硫酸をかけた上で森に埋められた。その後、ソヴィエトは「ニコライ2世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表した。これは、ドイツ出身のアレクサンドラ元皇后らの殺害の事実を伏せることにより諸外国とのトラブルを回避する為であった。殺害の決定においては、レフ・トロツキーが「ニコライを裁判にかけて罪状を裁くべき」と主張したが、レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と強硬に殺害を主張してこれを認めさせた。殺害後、レーニンはユロフスキーらに面会してその労をねぎらった。赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、レーニンらによるニコライ一家の処刑を、ボリシェヴィキ「法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。事実、一家が処刑された年にはミハイルら元皇族や元貴族が多数殺害されている。

ソビエト連邦崩壊後の1994年、発見された遺体が本人たちのものであることが確認され、2000年8月、ニコライ2世ロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖された。またロシア連邦捜査委員会は2011年1月、レーニンが処刑を下命した証拠は存在しないとの調査結果をまとめた。

死後
元皇帝一家の最後の状況については、5番目の皇女がいる、皇帝一家は死んでいない、など長年さまざまな噂が流れていた。末娘アナスタシア皇女を名乗る女性(アンナ・アンダーソンなど)がヨーロッパ各地に現れ、世間の話題をさらうこともあった。一方、一家が殺害されたイパチェフ館は、モスクワの指令を受けたボリス・エリツィンにより、1977年7月に解体された(エリツィンロシア連邦大統領になった後にこの件について釈明し、謝罪している)。その後、1979年になって民間人の地質調査隊がニコライ2世の死に関心を抱き、ボリシェヴィキの両親を持つゲリー・リャボフ調査員が元皇帝一家の遺骨を発見したが、モスクワで専門家に「この事に首を突っ込むな、全部忘れてしまえ」と警告されたため、遺骨の石膏の型が取られた後いったん埋め戻された。ソ連時代はニコライ2世を殺害した事実はタブーであった。エリツィンによって取り壊されたイパチェフ館の跡地には2003年になって教会が立てられ、「血の上の救世主教会」と命名された。

1991年、ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、元皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことが正式に確認された。その後、改めて掘り起こされた遺骨のDNA鑑定を行うため、残されていた複数の資料との照合が行われた。その中には日本に保管されていた「大津事件血染めのハンカチ」も含まれていたが、サンプルの量が少なく、この資料からは血液型の判定までしか行えなかった。元ロシア皇族の末裔らも、鑑定用に検査に応じた。グリュックスブルク家ヘッセン家の血を引くエディンバラ公もその一人である。

結局他の資料から遺骨がニコライ2世本人のものと判明。ロシア正教会は他のソビエト革命の犠牲者とともにニコライ2世とその家族を「新致命者」(殉教者の意)として列聖した。この列聖には、過去の清算とイパチェフ館の罪滅ぼしをしたいエリツィンの意向が働いていた。2007年7月にはエカテリンブルク郊外で新たな二つの遺骨が掘り起こされ、翌2008年7月16日にアメリカの機関による大津事件の際の血痕付着のシャツのDNA鑑定の結果、長男アレクセイと3女マリアのものであるということが確認され、元皇帝一家全員分の遺骨が確認された。

2008年10月1日、ロシア最高裁判所にて「根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下された。ロマノフ家事務局代表は、「90年前の犯罪が指弾されることは重要」として、この裁定を歓迎した。

Wikipedia:『ニコライ2世』より引用 )





写真の本は、原著が1976年刊行、邦訳が1977年刊行(文庫版は、1987年刊行)
DNA鑑定の存在しない時代・クレムリンの壁は高い・当時入手出来た資料によるを差し引くにしてもだ
おっと、もう一つ、アンナ・アンダーソンが本人である可能性が高いという結論に達しているを追加




「1991年、ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、
元皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことが正式に確認された。」
クレムリン秘蔵公文書を全面否定するつもりはないが、全部正しいとも限らん
興味深いのは何より、イパチェフ館での虐殺は、物理的に無理があり、残された証拠も怪し過ぎること
(詳しく知りたけりゃ、古本屋行くか、Amazonでお取り寄せしな)
「モスクワの指令を受けたボリス・エリツィンにより、1977年7月に解体された」
何か具合悪い証拠隠滅じゃないの?




第4皇女は生き延びたという『アナスタシア伝説』を信じるほどオメデタイ頭じゃなくたって
(アナスタシアと称する女性が
「偽物であったらともかく、本物であったとしたら
そして『私は私である』ということを世界中の誰も認めないとしたら
……これほど悩ましい悲劇はちょっとあるまい」
山田風太郎が‘人間臨終図巻’が述べたという言葉、これは何事にも念頭に置け





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1988年刊行の‘世界の女王たち’
この中に、『ロシア皇女 アナスタシアの謎』
‘ロマノフ家の最期’にも引用されている報告に多く当たってるんだけどね
(1918年当時の駐露英国高等弁務官チャールズ・エリオット卿による報告書)
‘ロマノフ家の最期’が書かれた1970年代といえば、1918年当時を知る関係者はまだ多く存命していた
皇帝一家と関わり持つ王侯貴族筋の情報は見逃せない
皇帝一家の運命にはとにかく、英国・ドイツ・デンマーク他の王室が暗躍しまくりなのよ
考えてみましょ
皇帝の母君マリア皇太后は、デンマーク皇女
アレクサンドラ皇后は、ヘッセン公女だから、ドイツ人
皇帝と皇后はどちらも、英国のジョージ5世のいとこに当たる
短く書いても頭痛がするくらい、欧州王室は血縁と姻戚関係結びまくり
当然、欧州王侯貴族の公文書館にも、わんさか非公開資料あるはずだよな?




皇帝一家の運命について推測される結論はですな…




皇帝とアレクセイ皇太子は、1918年7月17日(16日かも?)、イパチェフ館でない別の場所で処刑された
皇太子はヴィクトリア女王の孫に当たる皇后経由による血友病遺伝のため、どっちみち長生き出来ないものの
息子の健康を案じた父親により皇位継承権放棄させられてようが、やっぱ世継ぎに生まれるのは損だわ
その点、王家でも女子や運の良い次男坊以下などは、生き延びる可能性は高い
皇后とオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアの4皇女は、ドイツ系でもある
ドイツに囚われている同志返還しやがれ取り引き要員として、レーニンには大事な持ち駒
どうやらペルミに移送された模様で、どこかへ再移送された?1919年1月末頃までの足取りは確認されている
その頃には、世界情勢とお家の事情が変わり、彼女たちの価値は下落の一方だったので
レーニンが命じたかは置き、粗末に扱われ、遂に命運尽きてしまった
遺体だけを戻して皇帝、皇太子と一緒に埋めた、不自然で面倒だがあり得る
『イパチェフ館の虐殺』を正当化するに必要不可欠ならば




…アタクシは独断と偏見と邪推好きですが




世に知られる歴史(正史)なるもの、『公式に認められた物語』である以上
たとえ、一面しか見られなくても偏見を排し、両面を描かなければならない
それが歴史を書く行為というものである
(『イパチェフ館の虐殺』、これは、
特別重要事件裁判所調査官ニコライ・ソコロフが確立させた
「この文書だけから判断すれば、皇帝一家は死んでいない」

お上に望ましい結論を引き出すための、不都合な情報は無視した偏見の塊ファイル作成
「歴史はソコロフ調査官の手で歪曲された」と、法医学の見地から断罪されている




昔々読んだ少年向けSF小説に、時間パトロール隊(歴史パトロール隊だっけ?)が登場
彼らの任務は、「正しい歴史を守ることにあります」
で、いたいけな中坊たちが協力、反パトロール隊(名前の欠片すら出て来ん…)の敵退治に向かうと
「正しい歴史って、何だね?
事実は一つだが、しかし視点はいくつもあり、『真実』は一つじゃないよ
こんな感じでお説教され、子供は単純だ、「そーかぁ」と寝返り、パトロール隊との戦いに勝利した
メデタシメデタシの後、都合上、一度経験している何ヶ月か前から日常生活に復帰するんだけど
すでに見聞きしている物事に微妙なズレあったりするのよね~




何が言いたいか?




まもなく8月。TVでは、この時期恒例の戦争特集多いんだろなウンザリ
それらの番組を全面否定するつもりはないが
日本人の都合に合うのばっか観て、妙な世界観持つなよ、平和ボケどもがって意味




多くの平和運動家がポーランドに赴き、『ヒロシマナガサキアウシュヴィッツ』のお題目唱える
「同じ大量虐殺の被害者だから手を取り合って平和を訴えていこうね」
ポーランド人は表向きは同調するも、本音は冷めてる
「ただな、ポーランド人は、問答無用で侵略され、戦争を仕掛けられたんだ
日本は、どうだ?自ら戦争を始めた国、鉤十字ドイツと同盟を結んだ国だろ
米国の核によって非戦闘員が大量に傷ついたは自業自得であり、悲劇は戦争を止められなかった点にある
ヒロシマナガサキ・オシヴェンチム(『アウシュヴィッツ』は、ドイツ語。ポーランド人が怒るよ)
まず自国に非は見られなかったかと反省することなく、一緒にすんなよ~」




記事題名の意味:『スペイン語では、歴史と物語、どっちもHistoria