mathichen独話【Hatena版】

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Playing for Time(時間切れまでの演奏)。でも、未来は生まれた

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英国のチェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレの、現役時代と引退後の姿です
 
1971年(26歳)に指先などの感覚が鈍くなってきたことに気付く。この症状は徐々に悪化し、1973年初の演奏旅行のときには既に満足のいく演奏が行えなくなっていた。同年秋に多発性硬化症と診断され、チェロ演奏家として事実上引退。その後の数年間はチェロの教師として後進の育成を行っていた。1975年にはエリザベス女王からOBE勲章を授与されている。多発性硬化症の進行により、1987年に42歳で死去した。

Wikipedia:『ジャクリーヌ・デュ・プレ』より引用 )
 
引退後写真は、生徒の1人であったジュリアン・ロイド=ウェバー(作曲家アンドルーの弟)とのもの
彼女のマスタークラス受講者の中には
 
                   Piotr Iljitsch Tchaikowsky - Nocturne Op.19 Nr.4
 
ラファエル・ウォルフィッシュ(Raphael Wallfisch)いたと記憶しています
 
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アウシュビッツへ到着したさい、ロゼはひどい病気であったため隔離されていたが回復後、彼女はアウシュビッツの女性オーケストラ(the Mädchenorchester von Auschwitz Girls’ Orchestra of Auschwitz)のリーダーの仕事を担った。ロゼの到着前、オーケストラはSS-Oberaufseherin(収容所の女性警備隊)のマリア・マンデルのお気に入りのプロジェクトで、ポーランド人教師であるZofia Czajkowskaによって指揮がなされていた。彼女はオーケストラをすぐれたアンサンブルに変えることに貢献した。アンサンブルは主にアマチュアの音楽家と弦楽器、さらにはアコーディオンマンドリンまでも含む楽器で構成されていた。オーケストラの主要な職務は朝と夕方にメインゲートで演奏をして囚人の送迎をすることであった。オーケストラは囚人とSSのために週末コンサートを開き、SSの職務をもてなした。ガス室の選別の間にオーケストラが演奏をしたかどうかについては諸説ある。ロゼはオーケストラの指揮者として、平均的な収容者を遙かに超える特権ともてなしを与えられた。その例として、ほかの収容者より多くの食事と個室も与えられたことや、メンバーが病気になったときは診察してもらえたことなどがあげられる。これは、アウシュビッツの、ユダヤ人の囚人に対する処遇としては、、前代未聞のものであった。彼女はオーケストラを指揮し、時にヴァイオリンのソロも演奏した。ユダヤ人の囚人としては異例なことに、彼女は音楽的な能力においてマリア・マンデル・ヨーゼフ・クラマーやヨーゼフ・マンゲレなどに尊敬された。

また、ロゼが指揮したアンサンブルには、チェリストアニタ・ラスカー=ウォルフィッシュと声楽家兼ピアニストのファニア・フェネロンがいて、それぞれが英語でオーケストラの体験記録を書いた。フェネロンの記録あるPlayin for Timeは同名の映画フィルムとして作成された。その中で、フェネロンはロゼを保身のためにドイツ人にひれ伏し、とりわけ音楽家に対して、罵倒をしている冷たい心を持った独裁者として述べていたため、ロゼの扱いに対して議論を呼んでいる。 他のオーケストラのメンバーは強くこの記録に異議を唱えた。ロゼの最終的な関心はオーケストラの女性達の福祉を守ることにあった。ロゼは高い音楽性を維持しただけでなく、ナチスの逮捕者を慰めることもあった。 ロゼのサポーターにより記録された、彼女の在職中のオーケストラのメンバーに死者がいないということが彼女の成功の証しとなっており、1944年に死亡。死因は食中毒と推定されている。

Wikipedia:『アルマ・ロゼ』より引用 )
 
ファニア回想録、1983年2月1日の17歳誕生日祝いに買ってもらいました
ここでは、ファニアとアルマ他は何人かを除いて仮名で書かれ、アニタは“マルタ”(TVムービーでも)
 
同じユダヤ系でも境遇の違う、ドイツ上流階級お嬢様マルタとフランス人革命家である小さいイレーヌが親友
周囲から浮いたお嬢様も差し向かいで話せば、人なつっこい
ファニア自身、二人で話して感心した記述あります
 
マルタは英国移住して音楽家と結婚、息子もチェロ奏者として将来が期待されている
生還者のその後の中で触れられています
それを思い出しての、備忘録的当記事です